歴史小説にのめり込む

歴史小説にのめり込む

歴史小説と時代小説はちがいます。

歴史小説と時代小説とはほぼ同じ意味に用いられている事があります。

歴史小説ファンにとってこの二つはかなり明確な区別があります。

歴史小説は、主要な登場人物が歴史上実在した人物です。

主要な部分はほぼ史実の通りに進められています。

主人公の行動あるいは言動に、著者が訴えたいモチーフが込められています。

歴史を題材とした評論的な趣が強いです。

時代小説は、架空の人物を登場させます。

または、実在の人物を使っても史実と違った展開をします。

徳川光圀(水戸黄門)は実在の人物です。

しかし「水戸黄門漫遊記」のように諸国を巡り歩いて裁きをする史実はありません。

つまり、史実や著者の訴えよりも面白さを重要視したのが時代小説です。

「チャンバラ」と呼ばれた劇を「時代劇」というが、その小説版と言うことができます。

私は司馬遼太郎が大好きです。

歴史小説というと司馬遼太郎が一番に頭に浮かびます。

司馬遼太郎の作品はかなり史実に忠実だと思います。

歴史小説に大きな足跡を残した作家です。

戦国時代が大好きな私は司馬遼太郎は「国盗り物語」から読み始めました。

斉藤道三から始まって織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と進んでいきます。

このころの話は本当に面白いです。

一回読み始めたらワクワクして止まらなくなります。

ですから、読み始める時期を間違えると大変なことになります。

他の事が何もできなくなってしまいます。

仕事にまで支障がでてきます。

きっと、読んでいる時の私は信長の生き証人のつもりになっているのかもしれません。

ここが歴史小説の大事なところで時代小説ではこうはなりません。

物語にのめり込んでいるのですが、実在していた史実に基づいた物語だからです。

架空の人物や史実と違った展開ではこうはのめり込めません。

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さだまさし「案山子」で号泣

東京から引っ越して兵庫県に住んで15年になります。

その間に東京にいる母を亡くし、父を亡くしました。

8年前の11月に母を亡くしました。

妹から母が危篤だという 電話がありました。

私は東京に急いで帰りました。

しかし、死に目には会えませんでした。

通夜 葬儀と号泣している私に姉が言いました。

「お前はいいわね。帰ってきて泣くだけだから。」

まったくそのとおりです。

東京近郊に住んでいる兄弟で入院した母の面倒をみていたそうです。

私一人が遠く兵庫にいました。

それから、3年後の同じ11月に父が亡くなりました。

父にも死に目に会えませんでした。

母のときの姉の言葉が心にずっと残っていました。

父のときは泣けませんでした。

父のときも私は何も出来ず、通夜と葬儀に来ただけでした。

最近は東京に夜行バスで度々帰ってます。

母や父が亡くなるころはまったく、東京に帰っていませんでした。

父や母とは7年間ぐらい会ってないときがありました。

ですから、私の生活は両親が生きているときも亡くなった後も変わりはありません。

最近、さだまさしさんの「案山子」をテレビで聴きました。

号泣してしまいました。

歌詞のような出来事があったわけではありません。

ただ、母とたまに電話で話す時がありました。

「今度、いつ帰ってくるの」といつも聞いてきました。

私はいつも適当に「今、忙しいから、今度帰るから。」と答えてました。

そのまま、7年間帰らずに母は亡くなってしまいました。

父にも母にも何の親孝行もしていません。

心配ばかりかけていました。

もっと帰って顔を見せたらよかった。

せめて、もっと電話をすればよかった。

後悔ばかりです。

今私には「案山子」の歌詞がとても、身にしみます。

「今度、いつ帰る」

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